脱植民地化としての博物館構想:セネガル・ダカールの黒人文明博物館について

池邉智基(日本学術振興会特別研究員/東京大学)

お知らせ

中村融子がお届けしてきた「そうなんですよ!アフリカ現代美術」ですが、今回、新しい書き手として、大学院の先輩で、セネガルをフィールドとする研究者の池邉智基さんをお招きしました。
アフリカ大陸で新しいアートのインフラが次々と誕生していることは各所でお伝えしてきましたが、セネガルに2018年に開館した黒人文明博物館の事例を通じて、「文化の脱植民地化」「古美術返還」や「美術史の書き直し・複数化」について論じて下さいます!

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2018年12月、セネガル共和国の首都ダカールに「黒人文明博物館」(Musée des civilisations noires、以下、MCN)が開館した。この博物館はセネガルにありながらも、セネガルについての博物館ではなく、その名が示す通りアフリカの「黒人」の「文明」を展示することを目的とした博物館である。セネガルにはすでに約20もの博物館があるが、それらはセネガルの多くの公的機関と同様に非常に限られたリソースで運営されており、古びた施設と展示内容のままであることも多い。MCNはそのようなセネガルの博物館が抱えてきた状況において、新たに歴史と文化を展示することの大きな期待と重大な使命を背負っている。

しかし、「黒人文明」とは一体何のことであろうか。この語が指す対象や範囲は単純に「アフリカ文化」といった用語で言い換えたり、特定の民族・言語集団などを具体的に指したりするわけでもなく、容易に定義できるようなものではない。とはいえ、その命名と展示には非常に重要な含意があるだろう。それでは、セネガルにおいて「黒人文明」の博物館が作られるというのはどういった背景があるのだろうか。その背景には、大西洋奴隷貿易、植民地支配、アフリカの外で生きるディアスポラの運動、独立以降のアフリカ各国の状況など、アフリカ内外での複数の事象が絡み合っていることは容易に想像できる。さらに、アフリカのアーティストやキュレーター、研究者によっても異なる視座や主張を持っている上に、ヨーロッパや北米における運動や言説の影響もあるため、一言で「アフリカ」や「黒人」と言っても決して一枚岩とは言えない。こうした複数のアクターや言説が混じり合う中で、「黒人」という主体を扱うことの意義は何なのだろうか。本稿では、MCNの設立に至る歴史的背景、現代において「黒人文明」を扱うことの政治的・文化的意義、そして現状抱えている問題点について、それぞれまとめていく。

MCNの概要

MCNはダカールの南端に位置する港湾のそば、ダカール駅に隣接した建物である。敷地面積14,500㎡(内、展示面積3,500㎡)と、現在セネガルで最大の博物館である。円形に作られたMCNは、ジンバブエ共和国にある世界遺産のグレート・ジンバブエ遺跡と、セネガル南部カザマンス地方の家屋という二つの構造をモデルにした建築物である。ガラス張りになった建物の側面からは自然光が差し込むようになっており、神殿のような荘厳な趣さえある。こうした特徴的な構造はセネガル人建築家や学芸員らによる協働の結果出来上がった設計プランであり、中国による援助で建設が行われた。

MCNの展示内容を紹介しよう。入り口を抜けてまず正面に見えるのが、ブロンズ製の大きなバオバブのオブジェである。それを円形に囲むように、タッシリ・ナジェールの壁画や、アフリカ大陸で発見された現生人類の頭蓋骨化石、発掘された石器などが展示されている。その展示の裏にはもう一つ同心円状に円形の空間があり、古代エジプト文明の建築様式、医術、数学などが、サハラ以南アフリカの各地に伝播していることを示すポスター展示がまとめられている(注1)。

さらに、歴史上重要な数々の「黒人」たちのポートレートが壁一面に並んだ空間がある。名前も生没年も書かれていない写真たちだが、トゥサン・ルーベルチュールからネルソン・マンデラ、バラク・オバマまで、世界各地の運動家や知識人、政治家たちの顔から「黒人」の歴史の足跡を辿ることとなる。その壁の向こうには、立体彫像の展示部屋があり、ベニン王国やアシャンティ王国などの金属製や木製の彫刻、儀礼用の仮面などが並ぶ。キャプションには民族名称と用途、地名、おおよその年代が至極簡潔に書かれている以外に具体的な説明はないが、西部・中部アフリカを中心に、アフリカ大陸における多彩な「黒人文明」の存在を認識できる(注2)。

△一階部分のアフリカの仮面や彫像の展示 撮影:池邉智基

二階には、セネガルの宗教についての展示室があり、19世紀半頃からのスーフィー教団の聖者や宗教指導者のものとされるクルアーン注釈書、靴、剣、馬具、楽器、またはキリスト教の聖歌やそこで使用される楽器などが配置されている。その部屋の入り口付近には、フランスで1947年から出版されている黒人文化総合誌『プレザンス・アフリケーヌ』の歴史年表や、「黒人女性」たちのポートレートが壁面に並べられている。この部屋に隣接するように置かれた現代アートの展示スペースでは、アブドゥライ・コナテやマリク・シディベ、インカ・ショニバレなど、著名なアフリカ人およびアフリカ系ディアスポラのアーティストたちの作品が一同に並べられている。


△セネガルのスーフィー教団指導者が所有していた馬具 撮影:池邉智基


△マリク・シディベの作品(撮影:前田夢子)とアブドゥライ・コナテの作品(撮影:池邉智基)

三階にはアゴラさながらのオープンスペースがある。この場所で、セネガルのアート関連イベントが頻繁に開かれているようである。
以上がMCNの館内の展示状況である。筆者はMCNが開館して間もない2019年2月に初めて訪れて以降、年に数回程度、定期的に足を運んできた。まだ出来上がったばかりであるため、これから内容をより充実させていくのだろうということを差し置いても、MCNの展示物はあまりに時系列的に隙間だらけという印象は拭えない。さらに、広くアフリカ大陸を扱おうとしているが、現生人類の頭蓋骨や石器、仮面や彫刻、セネガルの宗教、現代アートが連なって配置されていることが、果たしてどのように「黒人文明」という名前の含意として受け取ればよいものかと、飲み込めずにいたというのが正直な感想であった。
それではMCNはどのような経緯で設立されたのか。その背景と意義について見ていこう。

設立の背景

MCN設立の構想は、1966年にダカールで開かれた第1回黒人芸術祭(Festival mondial des arts nègres)に遡る。黒人芸術祭はアフリカのみならず、ヨーロッパや北米・中米の黒人作家、アーティスト、ミュージシャン、映画監督など、アフリカ大陸に出自を持つ文化人たちが一同に会したもので、1960年に独立した直後のセネガルのイニシアティブで開かれた。この祭典を指揮したのは、セネガル初代大統領としても活躍したレオポルド・セダール・サンゴール(Léopold Sédar Senghor 1906-2001)である。植民地期にセネガルからフランスへと留学し、「黒人」であることの尊厳を謳う「ネグリチュード」という文学運動を先導してきたサンゴールは、独立後のセネガルでフランス語圏の地域(フランコフォニー)での連帯を進めつつ、アフリカの伝統的な価値や文化を示す場を芸術にも求めていた。20世紀初頭から行われてきた黒人作家会議のように、文化人・知識人たちの会合はすでにアメリカやイギリス、フランスなどで行われていたものの、アフリカの地で「黒人芸術」の名を冠した文化的祭典を実現するということは異例であり、重要な意義があった。この芸術祭において、サンゴールはアフリカの文化や歴史を扱う博物館を独自に設立することを公式に提案した。

ただし、サンゴールが呼びかけた博物館の構想はなかなか実行されなかった。独立したばかりのセネガルの国家形成はいくつもの政治経済的な障害を乗り越えなければならず、サンゴール政権での数々の困難に引き続き、二代目大統領ジュフ政権期では構造調整政策を実施せざるを得ない状況となり、文化的な政策を実施するまでの余裕は明らかに無かった。2000年代、三代目大統領ワッド政権で博物館構想が再度呼びかけられ、2011年から中国の援助によってMCNの建設が開始され、2015年に建物が完成した。その間、2013年には四代目大統領サルへの政権交代があったものの、文化振興政策の一部としてMCN構想は引き継がれ、開館に向けた準備が進められた(注3)。
しかし、MCNの開館には、展示内容や運営について相当な議論が必要となった。2016年に開かれたMCN開館のための国際会議報告書(注4)によれば、MCNのディレクターやセネガル文化大臣、セネガルを含むフランス語圏アフリカの研究者(考古学、博物館学、人類学など)、キュレーター、ジャーナリスト、小説家などが数多く出席し、複数のワークショップが開かれた。そこで話し合われたのは、MCNの博物館としての位置づけと、展示の方法や展示物の研究・収集、MCNの観光地としての利用やマーケティングの方法などであった。

展示の脱植民地化:「黒人文明」の複数性と連続性

2016年の国際会議は、MCNという博物館をいかに脱植民地化の文脈から作り上げていくかという文化的戦略が議論された場であった。その議論を一言でまとめるならば、これまでヨーロッパ中心で進められた民族学、人類学、歴史学、生態学、博物館学などによって構築されたアフリカについての「誤謬」や歴史的事実の「改竄」などを払拭し、独自の方法によって「黒人文明」について示す博物館を目指すというコンセンサスがとられ、その実現の方法が模索されたのである。この議論のうち、「黒人文明」という語の含意と、それをいかにして展示に反映させるかというポイントに絞って説明していこう。

まず、ヨーロッパ中心の歴史や文化の見方をどのように問題視しているのか。しばしばアフリカ人/アフリカ系の研究者や論者が指摘するように、西洋の歴史家たちはアフリカには「歴史がない」とみなしてきた。アカデミックな歴史研究をする上で、植民地化されるまでは論証のために用いることができる文字史料が他地域に比べて少ないというのが理由である。アフリカには数々の王国が栄えたことや、民族集団ごとに口頭で伝えられてきた伝承があることを踏まえて、口頭伝承など文字以外の資料を用いる方法は模索されているとはいえ、アフリカは世界史の一部として捉えられてこなかったという状況は、現在でも根強く残る歴史観である。これがアフリカの側から見た、ヨーロッパ中心主義の問題点のひとつである。

また、アフリカについて語られる内容には常に偏見や誇張、一面的な解釈がされてきたという認識も広く共有されている。アフリカの文化についてヨーロッパの博物館で展示されてきた歴史は長いが、実際に展示されたものは、その当地の文脈が切り離された上で「未開」というレッテルを貼られたものだった。アフリカ固有の「美術」や「アート」と呼ばれるものも、木彫りの仮面や彫刻、カラフルな絵画などがしばしば挙げられるが、それらはプリミティブな芸術様式を見出すものとして扱われたのである。

しかも、アフリカで民族学や人類学の名のもとに行われてきた調査・研究も、19世紀頃においては、啓蒙のためキリスト教を布教するという目的や、植民地の統治のためにアフリカ社会を理解するという政治的目的などがそもそも存在していた。それらの研究を引き継ぎつつも、1930年代頃には、フランス人研究者による学術研究を目的にした「フランス領黒人アフリカ研究所」(Institut français d’Afrique noire:IFAN)が作られ、フランス語圏アフリカ各地の仮面や彫像などを収蔵した博物館も設置された。現在もセネガルに置かれているIFANの研究所や博物館は、構成員のほとんどがセネガル人研究者に置き換わったものの、フランス植民地時代に行われた調査・研究の内容を引き継いだ植民地主義の遺産とも言える(注5)。

こうした問題点は、MCNの設立を目指す人びとにとっては、歴史的で科学的な蓄積としてはみなせるものではなく、今も色濃く残る帝国主義的な支配の遺産であり、乗り越えなければならない大きなハードルだったのである。それを乗り越えるために必要なのが、アフリカにルーツを持つ者たちの連帯という意味も込められた「黒人文明」という用語である。これは、ヨーロッパ人に発見された三人称複数形の「彼ら」としてのアフリカではなく、一人称複数形の「私たち」のアフリカとして文化や歴史の語りを再出発するための呼称である。「黒人文明」は、アフリカには歴史や技術、科学などの「文明」を持たない「遅れた野蛮な人びと」というネガティブな印象で語られてきたことのアンチテーゼとなる。さらに、アフリカの地を離れざるを得なかったディアスポラたちも含むことができる「黒人」というタームは、世界全体のレベルで連帯をもたらすことができるのである。

以上の点は、独立前後からも盛んに議論されていた内容でもあり、決して新たな問題提起ではない。MCN設立に向けた国際会議の報告書では、これらの点を改めて共通認識とし、すでに各地に存在する博物館の焼き直しではない、独自の方法を模索することを課題とした。その方法は、人類学でも、民族学でも、生態学の博物館でもない。なぜなら、ヨーロッパ中心の言説や歴史観を引き継いだままアフリカの歴史を語ることが、これまで行われてきた植民地主義的な民族学や人類学などの方法を用いることと同義であるため、アフリカの真の脱植民地化の達成とは言えないためである。人類が誕生したアフリカ大陸から人類文化についての語りを再構築し、これからのアフリカの未来も見据えた新たなモデルの博物館を作り出すという壮大な目標を打ち立てたのである。

興味深い点は、報告書の内容やMCN館長らのインタビューを読む限り、「黒人文明」の定義付けをあえて避けていることである(注6)。「黒人文明」というタームで歴史や文化を扱う際、特定の「民族」や「人種」を選び取って説明することもしない。なぜなら、「民族」や「人種」で区切ることこそが、西洋がアフリカを理解し統治するために用いた手法だからである。さらに、地域や集団を区切ることは、現代に至るまでの壮大な歴史さえ区切ることにもなる。現生人類がアフリカ大陸で移住を繰り返す中で諸王国の隆盛が起きたり、それぞれの「民族」の文化を発展させてきたことは、アフリカにおいて連続性を持ちながら複数に分岐していった歴史と文化として位置づけることができる。この複数であり連続的でもあるという歴史観・文化観が、定義付けを回避する「黒人文明」というタームの含意であり、脱植民地化のための新たな展示方法を模索するための指針となっているのだ。

未完の博物館

アフリカ大陸での現生人類の時代から現代までの一連の歴史をMCNで展示をすることで、グローバルな歴史の中にようやくアフリカを位置づけることができると、関係者たちは考えている。それと同時に、この長大な時間軸で「黒人文明」を語る展示が端から不可能であることは、MCN館長も織り込み済みのようである。そのため、常設展示は現生人類の化石についての展示のみとしており、その他のスペースは企画展を行い、海外からの美術品や文化財も適宜受け入れた展示を繰り返していくことで、「黒人文明」として歴史を再構築していくサイクルを作っていけるという企図である。こうした点を踏まえれば、時系列的に隙間だらけに思われたMCNの展示状況は、現時点ではあえて未完のままにしており、これからもまた変容していく可能性を秘めているのだろう。

以上、MCNが目指す新たな博物館の在り方を駆け足で紹介してきた。ここまでに説明してきた内容は、ポストコロニアル状況に対するラディカルで挑戦的な対応とも受け取れる。その中には、セネガルの一部の知識人の間で共有されているアフリカ中心主義の影響も少なからず存在する。ヨーロッパ中心の歴史観が問題含みであることは確かだが、それに対抗するかたちで作られたアフリカ中心主義的な言説は、これまでにも何度も議論されてきたものであり、時代錯誤や誇張があることは否めない(注7)。この点といかに折り合いをつけるのかは残された課題であるだろう。

また、MCNが「黒人文明」を代表=表象することは、セネガルを文化的なハブとして国際的な協力関係を作り、イベント等を継続的に開いていきたいセネガル政府の意向もあるだろう。その場合、ドナーやパートナーとの関係性次第で、今後のMCNの立場と方針を大きく変えていく可能性もある。

こうした点に加えて、MCNの開館と同時並行で起きている重要な現象がある。それは、植民地期にアフリカから持ち出されてヨーロッパの博物館に置かれた美術品や文化財を、もとの国や地域に返還するという運動である(注8)。歴史家のベネディクト・サヴォワとセネガル人研究者・作家のフェルウィン・サールが中心となって進めているこの運動は、現在、アフリカ各地への返還を実現しつつある。実際に2019年には、19世紀中頃にフランス軍との戦闘に破れたイスラーム指導者アル=ハーッジ・オマル・タルの剣が、フランスからセネガルへと返還されてMCNに所蔵されている(注9)。しかしながら、フランスやイギリスなどを中心に進んでいる返還運動について、MCNは現状、積極的な関与の姿勢は見せていないようである。MCNの館長は返還運動そのものの重要性を認めながらも、MCNが返還運動に関与することは「本物」の「伝統的」なアフリカ美術を定義してしまうヨーロッパ中心主義の側に立つことになることを憂慮している。この姿勢は脱植民地的な言明ではあるとはいえ、MCN自体も展示物の扱いについて指摘されている問題点とも大きく関わる。それは、MCNに展示されている仮面や彫像が、セネガル以外のアフリカの国や地域のものがほとんどであり、過去に現地で収集されてセネガルに保管されていたものや、海外のコレクターが収集したものを、MCNの開館に向けて展示品として集め直したという事実についてである。そのため、MCNで「黒人文明」を表象するものとしてセネガルで展示されている仮面や彫像たちもまた、フランスの博物館に収められてきた文化財が置かれた状況と同一視されかねない。MCNが博物館の脱植民地を謳いながらも、植民地主義的な手法が入り込んだ展示が行われているという矛盾が生じているのだ(注10)。この点もMCNが抱える課題だが、現時点では近隣諸国との間で問題化していないようである。

MCNの現状については疑問点が残るものの、2018年末の開館以降、コロナ禍を経た近年、MCNはようやく国際的なイベントを継続して開催することが実現できつつある。そのため、これからも企画展を通じて展示内容が大きく変化していく可能性は残されている。さらに、「黒人文明」の複数性と連続性は、今後も研究者やキュレーター、アーティストの活動が展開して、グローバルな言説とも絡まり合う中で、再定義を繰り返していくだろう。セネガルから「黒人」の歴史、文化、アートの脱植民地化を再出発していくという営為はまだ始まったばかりである。

注1 この展示における古代エジプト文明とサハラ以南アフリカの歴史的・文化的関係については、セネガル人学者シェーフ・アンタ・ジョップ(Cheikh Anta Diop 1923-1986)が提唱した歴史観が明らかに踏襲されている。ジョップは、古代エジプト文明にはナイル河上流から来た「黒人」の存在があったにもかかわらず、ヨーロッパの白人の研究者によって歴史的に「改竄」されたしまったというラディカルな主張を行った。それと同時に、古代エジプト文明の影響はサハラ以南アフリカの各地に存在しており、セネガルのウォロフ語と古代エジプト語が酷似しているという主張をすることでその裏付けを試みた。ジョップの見解は歴史学者や考古学者、言語学者によって多くの批判を受けたものの、一部の研究者や著述家などからは現在も強い支持を受けている。古代エジプトをめぐる「歴史修正」についての言説は、セネガルでも度々議論になっており、2016年のMCN開館に向けた国際会議においてもジョップの主張が西洋のアカデミックな議論からこぼれ落ちていることの問題点が指摘されていた。

注2 セネガルには仮面や立体彫像が他の地域よりも少ないためか、展示室にはセネガルの資料は置かれていなかった。そもそも、アフリカの美術品は植民地期に収奪されたものが多く、ヨーロッパの博物館に置かれている一方、アフリカの博物館にはそれらの美術品が置かれている場所はかなり稀であるという状況がある。

注3 博物館構想についての歴史的経緯については、以下の記事を参照。
https://boasblogs.org/dcntr/the-museums-of-black-civilisations-between-history-and-utopia/#_ftn1

なお、中国の支援によって実現した博物館建設については、中国によるアフリカ開発援助のソフトパワー戦略の一部であり、他のアフリカの地域でも同様の事例はある。ちなみに、MCNのディレクターは中国というドナーの存在を、ヨーロッパなどの先進国以外のアクターがアフリカのアートシーンに参入するという地政学的変化とみなしている。ただし、展示内容や博物館運営については中国側の介入は特に見られない。

注4 Rapport de la conférence de préfiguration du musée des civilisation noires. Dakar 28-31 juillet 2016.

注5 1938年にフランス領西アフリカ植民地政府によって設置されたIFANは、自然科学や人類学、地理学などの部門に分かれて西アフリカの社会や文化についての研究を行う研究所であった。セネガルが独立した際にIFANはダカール大学の機関となり、名称にあった「フランス領」を排して「黒人アフリカ基礎研究所」(Insituts fundamental d’Afrique Noire)に名前を変え、現在でも西アフリカの研究拠点との連携が引き続き進められている。

注6 館長のインタビューの内容については、以下を参照。

Interview du Hamady Bocoum. Le Musée des Civilisations Noires : une vision d’avenir. Présence africaine. 2018/1(No. 197), pp. 183-194.

注7 アフリカ中心主義(アフロセントリズム)は、1980年代頃より北米を中心に盛んになった議論で、英語圏におけるシェーフ・アンタ・ジョップの研究が再評価され、拡散したものである。そうしたアフリカ中心主義思想はインターネット空間で拡散されたものも多く、セネガルにも逆輸入されたことで、特にSNS空間では陰謀論的な言説も多分に含んでいる。

注8 日本語で返還運動について説明した記事については以下を参照。
https://www.theheadline.jp/articles/772

注9 オマル・タルの剣の返還については、以下の記事を参照。
https://www.bbc.com/news/world-africa-50458081

注10 これらの指摘については以下の論文(51頁)を参照。

Kopf, Charline. 2018. “Dakar’s Museum of Black Civilisations: Towards a New Imaginary of a Post-ethnographic Museum” Martor 23: 37-55.


著者

池邉 智基 | Tomoki Ikebe

日本学術振興会特別研究員(PD)。京都大学アフリカ地域研究資料センター特任研究員。
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科アフリカ地域研究専攻博士指導認定退学。博士号(地域研究)。セネガルのイスラームを宗教実践や口承文化の側面から研究しており、現在は植民地期から現代にかけての言語運動についても研究を進めている。著書に『セネガルの宗教運動バイファル――神のために働くムスリムの民族誌』(2023年、明石書店)。